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継伝が生まれた経緯

~ 悩み、苦しんだ学生時代 ~

私が34歳の時に継伝を考え付いた経緯は学生時代に遡ります。

ちょうど20歳前後の学生時代、周りが青春を謳歌している時に、私は精神的に病んでしまい、大きな苦しみを味わっていました。

高校までの私といえば、内向的で人と接するのがあまり得意でない、しかし内に大きな負けず嫌いさを秘めた性格でした。
大学進学に伴い、島根県の片田舎から都市部の福岡県に出て様々な人と触れ合う中で、自分の無知や無力さを知り、だんだんマイナス思考の悪循環に陥っていきました。持って生まれた極度の上がり症も相まって、そのうち人とまともに話せなくなり、笑うこともできなくなっていきました。街ですれ違う人がみな自分を見て笑っていると思うほど追い込まれていったのです(今思えば全て幻想ですが)。

自分は何を考えて、何を目的に生きていけばいいのか。自分のような世の中に必要のない人間が何のために生まれてきたのか。3年間毎日そんな事ばかり考え、勉強もバイトも遊びも、まともに手に付きませんでした。

~ 自分が変われたきっかけは本だった ~

そんな私が徐々に変われたきっかけは、21歳の時に書店で出会った本だったのです。それまで本などほぼ読んだこと無かったのですが、孤独で何もすがるものが無かった私は、さほど期待もせず本に救いを求めてみたのです。

するとその時買って読んだ数冊の本が、たまたま自分の精神状態の原因を言い当て、解決のヒントを与えてくれるものだったのです。
それまでの私は自分がこんな状態に陥ってしまったのは周りの環境がどうだからとか、他人と比べてどうだからとか全て外部のせいにし、自分のことばかり考えて他人のことには全く無関心だった事に気付き、そこにその時の精神状態の最大の原因があると悟りました。

私はそれらの本からヒントを得、ある日から考え方を無理矢理変えてみようと決意したのです。その考え方とは主に次のようなものでした。

「自分の事は考えずに、とにかく人の喜ぶ事をしよう。」
「損得考えずに何事にも一生懸命取り組もう。」
「全ての出来事を前向きに捉えよう。」

私はその時のどうしようもない自分を許し、0から出発する事にしました。

それまでは何事にも無気力で、大学の授業もほとんど出ておらず、4年生の時には単位がたくさん残っていたのですが、そこからは全ての授業に出るようにし、しかも真剣に話を聞き勉強する事にしました。バイトでもそれまでは『面倒くさいなあ』と思いながら動いたり、人の仕事を見て『何でこれをしないんだ!』と不満を持ったりしていましたが、それからは『全部俺が請け負うんだ』という気持ちで、他のスタッフに出来るだけ楽させてあげようという思いを持って取り組むようにしました。そして『今の自分には知識も教養も何も無いから、空いた時間には本を読んで勉強しよう』と、それ以来暇さえあれば本を読むようにしました。

そうやって考え方を変え実践していくうちに、少しずつ変化が現れてきました。
人のことを考え、人に喜んでもらうことはとても嬉しい事だと気付きました。物事に一生懸命取り組むことで周りが助けてくれたり、人から必要とされるようになっていきました。物事を前向きに捉えることでいつも明るくいられるようになりました。

こうして私は考え方と行動を変えれば、生き方は大きく変えられるのだという事を体感していったのです。そして社会に出た時には大きな目標を持つようになっていました。

~ 社会に出た時の目標 ~

『自ら人の役に立つ事業を起こし、実績を残し、過去の自分と同じように自分に自信を持てない人に勇気を与える』

その目標を胸に、私は開業を目指しながら仕事に取り組んできました。
どんな苦しい出来事も前向きに捉え、私利私欲を捨て、人を喜ばせる事だけに注力してきました。

最初に就職した松江市の廃棄物処理の会社では、勤めていた6年の間に色々な部署を経験しました。主に営業職の経験が長かったのですが、私は自分の給料や出世の事など一切考えず、とにかくお客様や同僚にどうやったら喜んでもらえるかだけを考えて仕事をしていました。そういう思いで仕事をしていると、時には損する事もありますが、周囲からは信頼して頂けるものです。私はその信頼こそがやりがいになっていましたし、おかげでハードワークでも楽しく取り組む事ができていました。
本当に忙しい日々でしたが、その合間を縫っては本を読み、経営者としての心構えや生きる上で大切な考え方などを学んでいました。

家の事情もあり、28歳で会社を辞めて地元島根県大田市に帰りました。そしてその時に初めて事業立ち上げを試みました。
その頃の私は『事業を起こせるなら何でもいい。とにかくお客様に尽くすんだ!』と考えており、この付近に同業者が無く、資金もあまり掛からなさそうだという理由から〝子供服のリサイクルショップ〟を立ち上げようと思い立ちました。

そうはいっても全国で二番目に人口の少ない島根の中でも、さらに人口が多いとは言えない地域。しかも年々過疎化が進んでいる状況。そこで『まずは1日ショップを開いてみて、地元のお母さん方にどれくらいの需要があるのか探ってみよう!』と考えました。販売する服を確保するため、私は市内の子供がいそうなお宅を一軒一軒訪問し、趣旨を説明しながら使わない子供服を頂戴して回りました。最終的には30軒のお宅からリサイクルショップ1軒分くらいに相当する服を集めました。そこで今度は1日ショップオープンのチラシを配り歩き、展示場を借りて1日ショップを開きました。
結果、最初の1時間は20人そこそこ来店されましたが、それ以降はまるっきり人が途絶えました。結局周囲の反対もあり、この事業は断念する事になりました。今にして思えば、何の展望も下調べも無い、無謀な挑戦だったと思います。

子供服のリサイクルショップをあきらめ、今度は地元大田市の国立公園三瓶山の麓にある旅館に就職しました。
そこでは初めフロントだけやっていればいい業務だったのですが、自ら進んでたくさんの企画や宿泊プランなどを考えていきました。単純にお客様に喜んでほしいという気持ちと、自分が考える企画がどこまで通用するのか試してみたいという思いもありました。自分の施設だけではなく、周辺の施設にも波及するような企画をよく考えました。
記念日プランとして考えたのは、収容人員170名のプラネタリウム施設を1組だけの貸切とする企画でした。思い出の曲を流しながら記念日の星空を流したり映像を流しながら、ナレーターが手紙を読み上げる宿泊プランは、大きな感動場面を生み出したりもしました。

しかし、その他に考えた企画の中には、お客様が必ず喜ぶはずだと自信を持って考えたものでも、ほとんど利用されなかったものもたくさんありました。

ここでは、『どんなに自分がいいと思ってもお客様に受け入れられるものはごく僅か。その僅かを掴むためには挑戦し続けるしかない』という事を学びました。

~ きっかけは〝親子カフェ〟 ~

旅館を34歳で退職した時に再び事業立ち上げに挑戦しようと思い立ちます。最初にやろうとしたのは〝親子カフェ〟でした。

私は松江にいた頃、二人の幼き我が子の面倒をよく見ていました。私は男三人兄弟の二男として生まれましたが、祖父の時代に大きな借金を抱えた事もあり、仕事で忙しかった父はほぼ家におらず、母は仕事と家事・育児に追われ、祖母も昼は仕事で夜は生花を教たりととにかく忙しく(祖父は生前に他界)、幼少期を全く手を掛けられずに育ちました。
自分が寂しい思いをして育った分、自分の子供には手を掛けてやりたい気持ちがあったのかもしれません。母親がやるのと同じくらい子供の面倒を見ていたので、母親の育児ストレスというのがよく分かっていました。そしてこの島根県にはそういう母親のストレスを解消できる場が少ないと感じており、だから『子供を手放しで遊ばせながら、ゆっくりくつろげる施設でもあったらいいのになあ』と兼ねてから思っていたのです。

そういう施設は世の中に無いと思っていたのですが、インターネットで調べてみると、全国には(特に都市部には)〝親子カフェ〟という名称でそのような施設がある事を知りました。それを知った時、『これをやりたい!』と思い、親子カフェ開業を目指す事にしたのでした。

さっそくこれまで学んできた事を総動員して事業計画を練っていきました。理念や試算表の作成、メニュー作りなどできる事をどんどんやっていきました。店舗図を考えるのにファミレスでソファや受付台の寸法を測って店員に白い目で見られた事もありました。
しかしどれだけ戦略を練っても、今ある施設がどんなものなのか実際見てみないと始まりません。この近辺にはそのような施設が無かったので、全国の施設のホームページを全て見て自分の理想に近い施設を数軒ピックアップし、視察を兼ねてオーナーさんに話を聞きに行くことにしました。関東のオーナーさん数人にアポが取れ、他県にも数箇所見学に行く手筈が整いました。

いよいよオーナーさん達にお会いする日が来ました。私はわくわくしながら一人車を走らせました。
そしていざお会いすると…それは私の抱いていた希望にヒビを入れる結果でした。
皆さん一様に、「とても厳しい」とのお言葉…。お母さん方は心から喜んでくれるが、回転率が悪かったり、夜は子供を連れて出掛けないなど、このビジネスモデルには課題が多く、採算を取るのが非常に難しいとの事でした。私と同じ想いを抱いて始めたけど、1年ほどで苦境に追い込まれているというオーナーさんもおられました。

私は島根に帰り、今度は地元の飲食店のオーナーさんや経営者の方々にもプランを見てもらいました。しかしそこでも誰一人賛成する人はいませんでした。「何故この少子化の時代に?」と呆れ顔をされる方もいたほどです。それでも私はお母さん方の喜ぶ顔を信じ、ここまでやったのだから何とか採算が取れる方法を考えて開業にこぎつけたいと思っていました。
しかし、最終的にはきっぱりあきらめるに至ったのでした。

あきらめた理由は人口の推移を調べた事によるものでした。
松江市で開業したいと思っていた私は、飲食店オーナーさんからの助言もあり、商圏内の0~5歳の子供を持つ母親の人口を詳しく調べてみたのです。そのうちの何人がどれくらいの頻度で来店されたら採算が取れるかという比率が問題になります。その結果、その時点の人口であればボランティア精神であれば何とかやっていけたかもしれませんが、5年後10年後の推移を計算した時、何をどう頑張っても無理だと認めざるを得なかったのです。
親子カフェに来てくれるのは家で子供を見ているお母さん達なのですが、少子化に加え、その頃松江市では子供を預けて働きたい多くのお母さんたちの要望に応えるため、保育園を大幅に増園する計画を進めていたのです。

私はこの時、事業というのはお客様に喜んでもらえるというだけで成り立たつものではない事を学んだのでした。

~ 継伝の発想は、2つの想いが合わさったもの ~

親子カフェをあきらめた時、私は不思議とそこであきらめる気持ちになりませんでした。自然ともう一度挑戦しようという気になったのです。根拠はありませんが、だいぶ近づいた気がしたのでした。
そしてその時私は次の二つの想いに耽りました。

一つは『高齢者の方が社会貢献出来る事って何だろう?』という想い。

親子カフェによって人口の推移を見た時に、あらためて65歳以上の人口の多さを目の当たりにし、『この世代の方に喜んで頂けることって何だろう?』と考えたんです。そこで色々調べてみると、この世代の方は社会貢献がしたいという想いを持つ人が多いことを知ったのです。

もう一つは『誰でも読みたくなる学びの本って無いものだろうか?』という想い。

親子カフェを断念して、『ああ、またダメだったかあ。たくさん本を読んで勉強してきたんだけどなあ。でもこれまで読んできた本は人生の大きな糧になっているなあ。』とあらためて実感したんです。
本を読まないといけないという事は無いのですが、読んだ方が絶対にいいと私は思っています。本はあらゆる先人の知恵を学べ、色々な悩みを解決してくれたり、人生の指針を示してくれる最も身近なツールです。私自身、考え方を180度変え、人生を生き生きと過ごせるようになったのは本のおかげだと思っています。また本はテレビやラジオと違って、映像や音声という情報が無い分、想像力を働かせなければならず、自然と想像力を養うことにも繋がります。
そこで普段本を読まない人でも読みたくなる学びの本は無いものかと考えたんです。

このの2つの想いが合わさって、ふと浮かんだアイデアが〝家族の本〟だったのです。

『家族の本なら誰でも読みたくなる。それによく考えたら、自分と似たような考え方を持って人生を先に歩んでいる親や祖父母の人生経験は、必ず子や孫の役に立つはずだ。そしてまさにこれは高齢者の方の社会貢献にもつながる!』

そう思ったんです。そして、

『これならこれまでの自分の仕事の経験や、本を読んで学んできた事が生かせる。』

とも思いました。

しかしこれまでの経験から、いくら自分が良いと思ってもお客様に必要とされるかどうかは別だと感じていましたので、まず自分の空想物語で見本の本を作り、様々な世代の人たちに見てもらう事にしました。
すると親子カフェの時とは打って変わり、今度は皆さん一様に「これはいい!」と言ってくれました。高齢世代の方からは「これは作りたい人がいるはずだ」と言われるし、若い世代の方からは「これは是非おばあちゃんにプレゼントしたい」「何も知らないまま親が亡くなったので、亡くなる前にこれを作っておきたかった」などのお声を頂きました。その反応に私は、『これはやる価値がある。これに掛けてみよう!』と思い、この本を“継伝”と名付け、事業化を決意したのでした。

~ 継伝制作を始めてみて ~

こうして私は13年かかってようやく念願の事業立ち上げに辿り着きました。
実際にお客様の本を作らせて頂くと、自分が想像していた以上に喜んで頂け、ご家族に様々な感情を呼び起こすものでした。自分で書くのとは違い、第三者が入る事によって、親子間で知らなかった感情や想い、エピソードなどが浮き彫りになり、私が想像もしていなかった家族のドラマが次々と生まれ、それが新たな絆を深める事に繋がったのでした。

私も最初は手探り状態で多少の不安もありましたが、実績ができる度に『この商品は必ず世の中に広めなければならない』と、より使命感に駆られるようになりました。そのくらい継伝は人に元気を与え、子孫や周囲に良い影響を与える商品だと実感できるのです。

そして制作させて頂く私自身、心から人に喜ばれ、これまでの自分の経験が生かせる仕事である事に、とてもやりがいを感じています。

この先多くの方の足跡を形にすることで、新たな想いや価値を結び、後世の進歩につなげていく事がニッチノーマスの役割だと思っています。そのために一人一人のお客様とのご縁を大切にし、誠意と責任を持って作品作りに向き合っていきたいと考えています。